Voice of ER ー若輩救急医の呟きー

日本のどっかに勤務する救急医。医療を始め、国内外の問題につきぼちぼち呟く予定です。

衡平感覚と医療・医学

 こんにちは。今日は久々に(?)YouTube以外のネタでブログを更新します。以前私はこのブログで『喧嘩両成敗の誕生』なる書籍を紹介しましたね。その本で、『衡平感覚』という専門用語が登場します。この定義は「復讐を行う時、双方の損害が等価となるようにすること」だそうです。

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 その本によると16世紀、当時京都にあった皇居の近くで公家の和気業家が、「無礼」を理由に宮廷の雑用係を斬り殺すという事件がありました。和気は別の公家 正親町実胤の自宅にすぐに逃げ込み、正親町も和気を受け入れていたのですが、怒った他の雑用係らは「身分なんか関係ない!『相当の儀』でヤツを殺す!」と言いつつ正親町の自宅を襲撃しようと息巻いていたそうです。最終的に、当時の後奈良天皇が「和気は自分の地位を捨てて逃亡したんだし、今後見かけた時にその場で殺して構わん」的なことを言ったので、雑用係らは納得し解散したそうです。このように中世の日本人は、紛争の解決において『衡平感覚』を重要視していたのです。

 また15世紀には当時の滋賀県で、互いに隣接する集落の百姓が山野の権利を巡る紛争に決着を着けるため、室町幕府の役人の立会いのもとで「『被告』・『原告』の双方が熱湯に入っている小石を素手で拾い上げて、熱傷の程度により神意を占う」という『湯起請』を行ったものの、「引き分け」の判定になった事例があったそうです。これは当時の室町幕府将軍 足利義教に報告され、彼は判断に迷った末に「係争地は中分する」との裁定を下したとのこと。すなわち中世日本では、事実関係・善悪の判定よりも、『神意』を借りて皆を納得させることや, 紛争当事者双方の主張の中間を示すことによって共同体の秩序回復を優先させていたのです

 

 『喧嘩両成敗の誕生』に記された種々のエピソードや考察を通して、私は現代の日本で起きたある『事件』を思い出しました。

 ヒトパピローマウイルス(Human Papilomaviru; HPV)は性行為によって性器に感染し、女性においては子宮頸癌の原因となることが知られています。なおHPVには200種類以上の遺伝子多型が同定されており、子宮頸癌等悪性腫瘍の原因となるHPV(e.g. 16型, 18型, 31型, 33型など)はハイリスク, 良性疾患である尖圭コンジローマの原因となるHPV(e.g. 6型, 11型, 42型, 43型, 44型)はローリスクへと分類されています。日本産婦人科学会の資料によると、年間約1万人が子宮頸癌に罹患・約2,800人が子宮頸癌により死亡しており、年齢別に見ると39歳以下は年間約150人, 44歳以下は年間約300人が子宮頸癌により死亡しているそうです。しかしながら、幸いにして我々人類にはこのHPVを克服する方法を既に開発しています。HPVワクチンです。

 日本ではHPVワクチン接種が2010年から公費助成の対象となり、2013年4月からは予防接種法に基づき定期接種化されていました。ところがその後、HPVワクチン接種後に全身疼痛, 自律神経障害, 口内炎等の症状を起こしたとの報告がなされ、マスコミがこれをセンセーショナルに取り上げてしまいます。それを受けて厚労省は同年6月に「HPVワクチンの積極的接種勧奨を差し控える」と表明しました。

 なお、HPVワクチンの安全性については既に様々な疫学的な研究結果が出ています。以下に実例を示します。

  • HPVワクチンとA型肝炎ワクチンを比較した大規模比較研究では、重篤な有害事象の発生率に差はない。
  • デンマークスウェーデンの女性997,000人を2年間追跡した研究では、ワクチン群 vs 非ワクチン群で自己免疫疾患等の合併症に差はない。
  • 名古屋のデータを分析した結果、HPVワクチン接種群と非接種群で有害事象発生率に差はない。
  • HPVは筋肉注射なので、1. 注射部位の一時的な痛み; 9割以上, 2. 一過性の腫脹・発赤等の局所症状; 約8割で報告され、また 3. 頻度は少ないものの、若い女性で迷走神経反射(疼痛・不安により失神する) が報告されている。

他方、HPVワクチンの効果については次のようなデータが出ています。

  • 第3相臨床試験(発売前の大規模臨床試験)では、 HPV未感染者において16型・18型への感染予防は約100%で、同型による前癌病変の予防も約100%だった。
  • 既にHPVワクチン公費助成を導入した米・英・豪・北欧では、ワクチン接種対象世代においてHPV16型, 18型の感染率が劇的に減少した。
  • 日本国内における'NIIGATA STUDY"では、中間解析にて20~22歳の集団において、HPV16型・18型感染は 非接種群 2.2%(459名のうち10名) vs 接種群 0.2%(2379名のうち3名)であり、ワクチン接種群で感染率が有意に低かった(p<0.01)。ワクチンの有効性は、性的な活動による感染リスクを調整した場合、約94%であった。

 これらのデータは2021年1月9日現在、後に示す資料から一部のみを私が引用してきたものですが、厚労省が「勧奨を差し控える」と判断した2013時点でも、HPVワクチンの安全性, 或いは効果についての学術的・統計学的なデータは揃っていた筈です。厚労省・政府はそうしたデータを遍く日本国民に伝わるような形で提示することで、国民やメディアを説得することも出来たでしょう。しかし、現実は既に述べた通りです。何故政府は、果敢に(?)国民の説得を試みなかったのでしょうか?

 この背景には日本人が中世以来引きずってきたメンタリティがあると私は思います。冒頭で述べたように、日本人は自分が事件・事故・その他トラブルで何らかの『損害』を被ると、相手にも同等の『損害』を持つことを要求する『衡平感覚』を持っています。また、個人・集団間の対立では「誰が加害したか/不注意であったか」, 「双方はこう主張しているが、真相はこうである」と厳密に判定することよりも、共同体・社会の秩序維持(情緒的不和の回避or早期解消)に重点が置かれるきらいがあります。上述のHPVワクチンを巡る『事件』の顛末に当てはめて考えると、次のように考えることも出来るでしょう:

HPVワクチン接種による被害を主張する人々は、件の『衡平感覚』を持っていた。司法制度が整備された現代では、訴訟を通じて国に賠償を求めることが出来るが、『被害者団体』はそのついでに(?)HPVワクチン接種自体を中止するよう求めている。

これに対し厚労省は、(本来、上記のような疫学的データを主張すべきなのに)『被害者団体』との紛争が長引き、それに伴い『被害者団体』以外の国民とも情緒的な不和が形成・増強されていくことを忌避して、「積極的接種の勧奨を差し控える」という、彼我の主張の中間点を選んだ。

 医学を含めた様々な学問・(科学)技術や、法制度・ジェンダー意識等の社会を構成する様々なシステムor思想は中世などと比べると劇的な発展を遂げており、今も変化を続けています。にも関わらず、我々人間(or日本人)の思考, ないし (集団)心理には前時代的な要素が未だに幅を利かせている現状が、改めて浮き彫りになったような気がします。

※参考文献

『子宮頸がん予防について正しい理解のために Part1 子宮頸がんとHPVワクチンに関する最新の知識』(日本産婦人科学会): https://www.jsog.or.jp/uploads/files/jsogpolicy/HPV_Part1_3.1.pdf

『インフルエンザはなぜ毎年流行するのか』(著者; 岩田健太郎, ベスト新書): https://amzn.to/2Xq3aRS

Wikipediaヒトパピローマウイルスワクチン - Wikipedia