Voice of ER ー若輩救急医の呟きー

日本のどっかに勤務する救急医。医療を始め、国内外の問題につきぼちぼち呟く予定です。

本の紹介(20) 『喧嘩両成敗の成立』

 今日は久々に、最近読んだ本の書評行きます!『喧嘩両成敗の成立』(清水克行 著,  講談社選書メチエ です。この本の題名の通り、日本には『喧嘩両成敗』という概念がありますが、その起源を歴史から探ろう、的な内容です。

 なお室町時代は、歴史学者の間では「足利義満が政治的に自立する1379年から、細川政元足利義材を追放する1493年まで」と定義されています。また、15世紀(室町時代の大半とオーバーラップ)は地球規模の環境変動で飢饉が頻発し、日本国内でも京都へ難民が押し寄せていた時代でもあったようです。現代でも世界的に貧富の格差が拡大し、それを背景に過激な思想の拡散や市民の分断が問題視されていますが、室町・戦国時代の日本の状況はそれとは比にならない状態だと思います。寧ろ、天然資源等の利権を巡る『上級国民』間の対立が民族/部族・宗派/宗教間の武力紛争に発展し、中央政府が機能していない国家(ソマリア, イエメン, 中央アフリカなど)に似ているような気はします。

 では、具体的にどうゆう状態だったのか?事例を幾つか示してみます。

  • 北野天満宮所属の酔っ払った社僧(当時は神社にも僧侶がいた)が稚児を連れて、金閣寺を訪問。その際に金閣寺の僧侶の立小便を目撃し、稚児がそれを揶揄したことをきっかけに双方が口論に至り、遂に社僧一味と金閣寺僧侶集団の間で刀を用いた乱闘が発生し死傷者が出た。そこから金閣寺vs北野天満宮の戦争へ発展しかけたが、室町幕府の仲裁で開戦は回避できた。
  • 細川勝元が17歳の時、配下の男と同衾(中世・近世日本で男色は結構あったらしい)していたら、嫉妬した他の家人(男性)が寝床へ襲撃を仕掛けてきて、一緒に寝ていた家人は死亡。勝元自身は難を逃れた。
  • 中世日本では妻の浮気相手を夫が殺す『女敵討』が横行しており、鎌倉幕府は『御成敗式目』で禁止する方針を示していたが、効果があったかは微妙。室町・戦国時代には寧ろ公的に容認されていたフシがある。なお、「酒屋の主人が妻の浮気相手を殺したことがきっかけで、酒屋と主従関係(酒屋が被官)にあった武家勢力と, 浮気相手と主従関係(浮気相手が被官)にあった他の武家勢力間での戦闘が発生する寸前まで行った」という事例の記録がある。
  • 中世日本では切腹(=自殺)が、『恨みを持つ相手への抗議』, 『公権力への訴願』という意味合いを持っていた。室町時代には「(武士だけでなく)僧侶や女性が切腹していた」という記録もあるが、その頃から『切腹=名誉のある死に方(刑罰として行われた場合、斬首などと比べると本人のメンツを守る処刑方法)』と考えられていた。
  • 合戦が起きた後、「民衆が敗走する側を追いかけ回し、殺してまで甲冑・刀などを略奪した」という記録が多く見られる。しかも多人数が、白昼堂々京都の街中といった環境でやっていた。室町幕府側も、合戦が起きた時にこれを敵方への攻撃手段に利用していた。
  • 幕府中枢で失脚した大名が出ると、その人物の屋形に民衆が集まり略奪を行ったという記録が多く見られる。室町幕府側もこれを容認し、寧ろ敵対勢力への攻撃として活用していた。

 現代の日本人の感覚からすれば、無法地帯にしか見えませんよね?私はこれを読みながら、あまりの酷さに失笑してしまいました…でも時代背景を考えると、上記のように戦災・飢饉で生と死の境目が今日と比べて低かった時代でもあります。また、当時の日本人は「侮辱されたら峻烈な仕返しも厭わない」, 「被官(=自分の配下)が被害を受けたら、主人が主導して報復」, 「コミュニティの構成員が殺されたら、皆で報復を実行」といった、現代とは比較にならない程度の名誉意識や主従関係・集団帰属意識を持っていたのです。

 こうした中で、当時の日本の政権中枢(室町幕府や、その後の織田・豊臣政権, 徳川政権)がどのように『法の支配』(?)的なものを確立していったのか?を追っていくのがこの本の主題でもあります。

 あと、私個人として上記のような「相手への抗議や、公権力への訴願の手段として自殺する」という中世日本のメンタリティが引っ掛かりました。この本でも指摘されていますが、21世紀の今日でも仕事・学業・家庭でのトラブルを契機に自殺する人が目立つ背景に、中世日本人の『死』・『切腹』・『自決』に対する観念がある程度関与している可能性があるのではないでしょうか?