Voice of ER ー若輩救急医の呟きー

日本のどっかに勤務する救急医。医療を始め、国内外の問題につきぼちぼち呟く予定です。

終戦の日に考えたこと

 今日は8/15、終戦の日です。天皇陛下が来年退位されるので、平成最後の終戦の日ですね。73年前の今日、日本政府はポツダム宣言の受諾を表明し、連合国へ降伏。1931年の満州事変以来続いていた日中間の戦争と、1941年から始まった太平洋戦争に終止符が打たれたのです。その間に、日本も周辺各国も、兵士・民間人合わせて相当数の犠牲を強いられたのは言うまでもないでしょう。

 毎年テレビを見ていると、8月の頭から終戦の日の前後まで、どの局でも戦時中の出来事を追跡調査したドキュメンタリーや、戦争を題材にしたドラマ・映画が放映されています。先日はNHK BSプレミアムで『日本のいちばん長い日』が放映されており、昨日も同じチャンネルで小野田寛郎さんのフィリピンでの生活や日本帰還後の生活について取り上げたドキュメンタリーが放映されていました。

 また、学校教育でも、小学校から高校まで、アジア太平洋戦争の史実を教えてもらうカリキュラムが組まれています。学校によっては平和教育という事で地元や他県の戦争遺跡や戦争資料館を見学する事もあります。事実私も、中学の修学旅行は沖縄でしたが、ひめゆりの塔沖縄戦の資料館、実際に日本軍が野戦病院として使っていたガマ(洞窟)を訪問する機会を得ました。

 確かに、史実を学習して、太平洋戦争が日本及び諸外国にもたらした惨禍を知ることは大切です。しかし、私が思うに「ここまで凄惨な結果を招いたのは何故なのか(何故敗戦したのか)」・「そもそも戦争を避ける策は無かったのか」・「百歩譲って戦争開始は仕方なかったとして、もっとマシな終わらせ方は出来なかったのか」という感じの議論が、学校教育や世論ないしマスコミの報道において、なされる機会が乏しいように思えてならないのです。

 本ブログで何回も紹介し参考にしている『失敗の本質』(著者; 戸部良一, 寺本義也ほか 中公文庫)では、それらの分析が行われており、学ぶ事が多いと思います。その本が示す、日本軍の敗因をまとめてみると下の通りになります。

①長期的視野の欠如・短期決戦志向

 対米開戦に踏み切る決断をしたものの、誰も長期的な見通しを持っていませんでした。昭和天皇に見通しを聞かれた海軍幹部は「勝算はあると思うが、絶対勝つかと聞かれても分からない」という感じの、曖昧な返答をしています。

 長期的視野が無いので、「太平洋や東南アジア各地の緒戦で、敵軍を一気に攻撃して押し切ればまあ何とかなるだろう」という短期決戦志向に陸海軍ともに陥りました。

 敵軍への先制攻撃・決戦・集中的な攻撃を重視する方針だったため、各兵員の鍛錬を重視する姿勢が生まれ、精神主義が強調されます。これにより兵員の練度は上がり、戦果には貢献しましたが、その反面、科学技術の軍事転用がおざなりになってしまいます。例えばレーダーは日米双方が研究していましたが、米軍の方で研究と活用が進んでいました。1944年6月のマリアナ沖海戦で日本海軍の航空隊は米艦隊の奇襲を図りましたが、レーダーによって探知され、迎撃されて大損害を被りました。また、特に陸軍は「敵軍より自軍は精神力で勝っている」と教えられた事から、相手の戦力を侮る思考が日本軍全体に浸透してしまいました。

 更に、短期決戦志向・攻撃力の重視という方針は、情報, 前線への補給と防御の軽視を招きます。「食料は逃げ去った敵軍から調達しろ」と述べる陸軍司令官がいましたが、現実では食糧不足で餓死する兵士が続出しました。また、攻撃力強化に偏って防御が薄い構造のため、航空機や艦船は一旦被弾すると大破・炎上してしまい、乗員の損失に繋がりました。米軍には「ダメージコントロール」なる概念が存在し、艦船が被弾しても消火設備で鎮火し、修復の上再稼働が可能であれば修理に回して復帰させるというプロトコルが働いたのですが、日本軍ではそれが機能していません。更に、1942年8月〜翌年2月に戦われたガダルカナル島攻防戦の際には、米軍が同島を第一歩に日本本土を目指した反攻作戦を計画しており、そのための大艦隊が出撃したという情報を諜報機関が事前に入手していますが、陸軍のトップである参謀本部は「米軍の反攻は遅くても1943年中期以降だ」という当初の見通しに固執して、その情報を無視してしまったのです。

②戦訓を学習しない体質(前線からのフィードバックの欠落)

 大本営を始めとした日本軍上層部には、前線からのフィードバックを受けて学習し、意思決定に生かすという過程が欠落していました。

 真珠湾攻撃日本海軍の航空機は、米海軍の軍艦を次々と撃沈し、マレー沖海戦でも同様に英海軍を航空戦で撃破しました。自ら航空戦が海戦の主体だと示したのです。しかし、海軍は日露戦争以来の方針である「大型戦艦からなる艦隊同士の決戦」という戦術から脱却できず、逆に米英軍が航空機主体の海戦を実践しています。1944年10月23〜25日のレイテ沖海戦では、東南アジアと日本の中継地点であるフィリピンを守る為に、連合艦隊を犠牲にするという計画のもと作戦が立てられました。作戦に参加する艦隊は3つあり、うち2つ(第2遊撃部隊と機動部隊本隊)はレイテ島へ向かう米海軍機動部隊を北方に引き付ける一方、残り1艦隊(第1遊撃部隊)は米軍上陸部隊を攻撃する為にレイテ湾に突入する予定となっていました。しかし、第1遊撃部隊は10月25日の正午ごろに突入を中止して反転してしまうのです。その原因は、無線通信の障害等のせいで、実際は北方で機動部隊本隊が米軍機動部隊を牽制していた状況を「敵機動部隊への牽制が失敗した」と誤認したことで、従来の日本海軍の志向である「艦隊同士の決戦」の為に北へ向かってしまったのです。その結果、米軍はレイテ島に足場を築いてフィリピン奪還を進めて行きました。

 陸軍も、ノモンハン事件で近代的な装備を擁するソ連軍(欧米は重火器, 戦車等の火力が幅を利かせた第一次世界大戦をヨーロッパで経験しているが、日本が戦ったのはアジア・太平洋地域だけだった)に対峙して大敗するという経験がありますが、これにより精神主義や銃剣突撃・白兵戦を重視する方針を改める事はありませんでした精神主義を益々強調し、兵力を増やすという対策しか講じていません。

③組織内の情緒的融和が第一

 日本軍内部では、合理的な議論よりも情緒的な融和を重視して合意形成を行う流れがあり、これが弊害をもたらしていました。インパール作戦を主導した司令官は、「未開の山岳地帯を3週間で踏破して、英軍の拠点であるインパールを攻略する」という兵站維持の点で無茶な計画をぶち上げ、再考を求める部下を罵倒して異論を挟めない雰囲気を作り出してしまいます。本来こうゆう状況では、上官・上層部が介入し修正させるのが筋ですが、あろうことか上官らは彼の『意志を尊重し』、計画を承認してしまいます。インパール作戦は日本軍の動きを察知し準備万端だった英軍の反撃や、食料不足による餓死者の多発等により失敗に終わります。

④組織内の意思疎通が不徹底

 下部組織と上層部の意思疎通の不徹底も、重大な結果を招いています。ノモンハン事件では、満州国ソ連間での国境紛争の対応方針を関東軍が作成したものの、本国の参謀本部に相談する事はありませんでした。更に、ソ連との戦線拡大に参謀本部が反対なのを承知で、関東軍は独断でソ連側への空爆を決行してしまいます。そんな中で関東軍は質・量ともに勝るソ連軍を前に不利な戦況へ陥ってしまったのです。

 また、1945年4月〜6月に戦われた沖縄戦では、大本営が事前の作戦計画で米軍に対して航空決戦で米軍の侵攻を頓挫させる方針を示しました。他方、沖縄守備を担当する第32軍は大本営の計画に懐疑的であり、沖縄で持久戦を行う独自の作戦計画を立てますが、大本営にこれを相談することはありませんでした。大本営の計画によると、第32軍は沖縄にある飛行場を確保しておかねばならないのですが、第32軍の計画では、フィリピン防衛の為に一部の部隊が転出させられたこともあり、飛行場の防衛を諦めることになっていたのです。このような齟齬は埋まることなく米軍が沖縄に上陸、第32軍は自分らの計画通りに作戦を進めてしまい、飛行場は米軍に占領されてしまいます。それを知った大本営は驚き、第32軍に飛行場奪還を要求します。それを受けた第32軍は米軍に対する攻勢に転じますが、逆に損害を出してしまい、沖縄での持久戦という計画にも支障を来たしてしまったのです。

⑤陸軍と海軍が連携していない

 日本には大本営が存在しましたが、陸軍と海軍が連携して戦争に当たるという態勢がありませんでした(当時は空軍自体が存在せず、陸軍・海軍それぞれが航空隊を保有。これは米軍も同じだった)。

 陸軍は元々仮想敵国をソ連とし、満州のような大平原での戦争を想定していました。太平洋戦争開戦後はインド方面で英軍を圧倒し、中国を屈服させることで既存の占領地域を確実に維持する持久戦を掲げていました。一方の海軍は元から仮想敵国を米国としており、太平洋への積極的侵攻による敵艦隊の各個撃破を掲げていたのです。本来はこれらを統合し運用するべきなのですが、両者の齟齬は埋められず1942年3月の大本営政府連絡会議で決定された『今後採るべき戦争指導の大綱』では「引き続き既得の戦果を拡充して、長期不敗の戦略態勢を整えつつ、機を見て積極的の方策を講ず」という、両者の主張を折衷した、曖昧模糊な妥協案が掲げられてしまったのです。

 他方、米軍は開戦時に陸海軍の両者を統括する統合参謀本部が当時の大統領ルーズベルトによって設立され、大統領の強力なリーダーシップの下で運営されます。前線でも、陸海空の戦力を統合し組織的に運用するシステムが完成し、日本に対する反攻作戦で威力を発揮しました。これに対し日本側は、陸海軍ともに米軍の戦い方を研究する姿勢が無かったのです。

 

 長文となってしまった上、不足もあるとは思いますが、先の大戦での日本の敗因はだいたいこんな感じです。繰り返しになりますが、マスコミや学校教育等では『史実』を取り上げる事はあっても(最近ではこれにイデオロギーや感情が入り込み、独自の解釈が加わる趨勢がある気がしますが)、『分析』・『検討』・『議論』が冷静に行われる機会が少ないと思います。毎年、「過ちを繰り返しません」というフレーズは唱えられます。しかし、『過ち』を犯した原因・背景を分析せねば、「繰り返さない」という誓いが守れないと私は思うのです。

 最後になりますが、この記事が、より多くの方の目に触れることを願ってやみません。