Voice of ER ー若輩救急医の呟きー

日本のどっかに勤務する救急医。医療を始め、国内外の問題につきぼちぼち呟く予定です。

『知略の本質』を通して考察する災害時のリーダーシップ

 今日で東日本大震災から9年が経ちました。あの衝撃的な揺れと、東日本太平洋側一体を襲った巨大津波, そして福島第一原発の事故からもうそんなに経っているとはちょっと信じられません(まだ最近の事のように思える)。そして皮肉にも2020年現在、COVID-19流行に伴う混乱が日本のみならず国際社会に大きな余波を与えています。まさに我々は、災害に直面しているのです。

 そんな中、私は当時と現在の政府の対応を見ながら、最近読んだとある著書を思い出しました。

『知略の本質 戦史に学ぶ逆転と勝利』(著者; 野中郁次郎, 戸部良一ほか 日本経済新聞出版社

この本では、第二次世界大戦時のチャーチルスターリン(とヒトラー), インドシナ戦争ベトナム戦争時のホーチミン(とホワイトハウス), 湾岸戦争イラク戦争時のホワイトハウスのリーダーシップについて検証し、リーダーの資質とは何か, リーダーは何をすべきか等々様々な教訓を導き出しています。

 これらのリーダーのうち、不利な戦況から勝利を掴んだチャーチル, スターリン, ホーチミンの手法には共通点があるのです。① 直面している厳しい現実について、国民へ率直に語る, ② その一方で共通の目標を掲げ、それに向けて団結すべく国民の士気を鼓舞する, ③ 但し細部に関しては然るべき専門家(信頼できる部下)に任せ、必要以上に口を挟まない, の3点です。ヒトラーの場合、人種差別的思想を背景に占領地で暴虐を重ね(現地住民から支持されない), 軍部の作戦に口を挟み、戦況悪化とともにそれがエスカレートしたことが敗戦の原因と考えられています。

 このような過去の教訓を参考にして、最近の事例を検証してみましょう。まず、東日本大震災時の日本政府・東電から考察します。福島第一原発が危機的状況に陥った時、当時の菅直人首相はわざわざ東電の本社に怒鳴り込んだというエピソードが有名です。これは「専門家を信頼して委任せず、いちいち口を挟んだ」とも解釈できますが、これまで明らかになっている通り、当時の東電上層部(と原子力規制省庁)の対応にも問題がありました。広範囲にわたる地震津波の被災地への対応と並行して「原発の非常用電源も止まってしまい核燃料が加熱している、このままでは放射線がどんどん漏れてしまうかもしれない」という危機的状況にも対応を迫られる、という未曾有 ー 或いは想定外 ー の事態に首相官邸は混乱していましたが、その官邸と第一原発の現場の繋ぎ役を担うべき東電の上層部があろうことか右往左往してしまい、首相官邸への報告が遅滞を来したため信頼を失ってしまったのです。そのザマですから、チェルノブイリ原発の如く原子炉内部(と燃える核燃料)が大気中へ野晒しになるという事態こそ免れたものの、核燃料のメルトダウンは避けられませんでした。今日になっても、融けた核燃料の回収作業は遅々として進まず、原子炉処理で出た水の行き先も紛糾したままです。

 では次に、今回のCOVID-19アウトブレイクに対する中国政府の対応を見てみましょう。以前の投稿で紹介した通り、武漢で未知の病原体による肺炎が発生した(そして中国政府がその事態を認知した)のは2019年12月8日であり、WHOへ報告したのは同月31日でした(その時点で死者0名, 患者27名)。2002〜2003年SARSアウトブレイクの際には、最初の症例確認が2002年11月16日, WHOへの報告は翌年2月11日(その時点で死者5名, 患者300名)だったので、それよりも明らかに迅速な対応です。おそらく習近平を含む中国政府上層部は、専門家の助言を受け入れ、「未知の病原体による肺炎が発生した」という危機的状況を率直かつ早期に自国民と国際社会へ伝える覚悟を決めたのでしょう。その背景にSARSアウトブレイクという教訓があったことは想像に難くありません。

 そして中国政府は、これ以上の感染拡大防止のために「武漢湖北省全域を封鎖する」という強硬策に出ました(おそらく専門家による助言もあったのでしょう)。第二次世界大戦中、モスクワへ迫りつつあるドイツ軍を前に、工場・企業を東方へ疎開させ, 秩序を乱した市民を秘密警察を用いて弾圧したソ連を彷彿とさせます。その一方でスターリンは敢えてモスクワに留まってラジオ演説により国民を鼓舞。モスクワ防衛を軍部に一任した結果、ドイツ軍を退けました。下記日本経済新聞社提供のマップにもあるように、中国本土での新規感染者数は2月下旬〜3月にかけて減少の一途を辿っていることから、この武漢湖北省封鎖という強硬策は成功と言えるでしょう。

 感染症アウトブレイクや自然災害, 戦争といった危機の際、リーダーたるものはどうすべきか ー その答えは、先人たちの苦闘を研究することで見つけることができるのかもしれませんね。

【COVID-19関連】偽情報へ立ち向かうには

 先日の投稿でも指摘しましたが、今回のCOVID-19流行に伴い、様々な科学的裏付けのない情報, もしくは意見(以下、"disinformation"で統一します)が、インターネットのみならず公共の電波を通じて流布される事態になっています。さすがの厚労省等公的機関も、それに黙ってはおれずSNS等を通じて誤った見解・情報への反論(というより訂正)を始めました。

 今回は、そのようなdisinformationにどのような対抗策を講じるべきか、私なりに愚考したので紹介して行きます。

 

(1) Buzzfeed Japanにこれまで通りorこれまで以上に頑張ってもらう。

 Buzzfeed Japanはこれまで、医療に関して(『自称』ではなく)ちゃんと資格や経験のある専門家らとインタビューを掲載し、正確な情報の発信に努めてきています。

https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/covid-19-sakamoto

この人たちにこれまで通りの取材・報道をしてもらうのはもちろんのこと、巷に溢れるdisinformationを押し流すくらいのインパクトを獲得するために、記事の内容を工夫する, 他のメディアと連携する等のtry and errorを果断に進めてもらいたいものです。

 

(2) NHKに本領発揮してもらう。

 私は子供の時から、NHK総合や教育の教養番組 ー テーマは自然科学, 歴史, 地理, 社会問題と多岐にわたる ー に慣れ親しんできました。今でも、NHKスペシャルクローズアップ現代プラス, 歴史秘話ヒストリア, 英雄たちの選択, ブラタモリetc.と様々な種類のドキュメンタリーや教養番組を暇さえあれば見ています。

 ここまで良質な番組を作れるのであれば、然るべき専門家の指導の下で特集番組を作成し、巷に流布する情報へのファクトチェックや、正確な知見を世間に認知させるだけの影響力は行使できるはずです。

 

(3) Disinformationを発信する本人らに対する調査報道を行う。

 上記(1), (2)に並行して、SNSや公共放送, 紙媒体等様々なメディアを介してdisinformationを発信している自称『専門家』に対する調査報道も必要ではないかと思います。

 具体的には、その人たちの過去の業績, 勤務した機関・施設, 関わった業務内容等を徹底的に調べ上げ、「彼ら・彼女らに感染症対策や災害医療といった分野の知識はそもそも無い」という事実を一般市民へ暴露するのです。

 また、このようなdisinformetionを流す人たちには何らかの真意があるはずなのです。例えば、下記New York Timesが作成したYouTube動画にあるように、1980年代、世界中で「HIV(AIDSウイルス)は米国がアフリカ系や同性愛者を滅ぼすために作った生物兵器だ」という根拠なき報道がなされていました。情報源は旧ソ連KGBで、彼らはわざわざ東ドイツの科学者を公共放送に出演させて自説を強化するような発言をさせています。そして21世紀に入った今日でも、SNSで多数の偽アカウント/ボットを用いて人種差別主義等の過激な主張を大量に流しています。ロシア(そして最高指導者プーチン)の狙いは、西側諸国同士とその市民間の分断を扇動し、その間に自国が有意に立つことにあります。COVID-19についてdisinformationを発信する人々についても、徹底的にその周辺を洗ってその真意を暴き、白日のもとに晒すべきでしょう。

www.youtube.com

 少々拙い考察になってしまいましたが、いかがでしょうか。もし「もっとこうすべきだ」, 「いやそれ違うだろ」というご意見があれば、遠慮なくお申し出下さい。

せっかくなんで新型コロナウイルスに関する論文を読んでみた。 Part 6

 少々途切れてしまいましたが、COVID-19/SARS-CoV-2関連論文の和訳シリーズを再開しようと思います。今回は今年3月3日にJAMAに発表された論文"Epidemiologic Features and Clinical Course of Patients Infected With SARS-CoV-2 in Singapore"(Young BE, Ong SWX et al.)を紹介します。

 

(1) Introduction

 シンガポールでは2020年1月23日に初のCOVID-19輸入症例が確認された(武漢からの旅行者)。その後、他の武漢からの旅行者, 武漢からの帰国者もCOVID-19と診断された。

 本case seiresでは、シンガポールにおいてCOVID-19と確定診断された最初の18名の疫学的特徴, 臨床症状, 治療と転機に関して記述する。

 

(2) Method

アウトブレイクへの対応

 2020年2月2日、シンガポール保健省は、直近のHubei省渡航歴がある肺炎患者に対して、SARS-CoV-2のscreeningを行うよう命ずる警報を発令した。

② データと検体の収集

 real-time RT-PCRにてCOVID-19と確定診断された人が本研究への参加対象となった。COVID-19患者の加療を行った4病院でデータを収集した。標準化したデータ収集フォームを用いて、医療電子記録のデータをsummarizeした。

 また患者が本研究に参加した後の最初の2週間内の複数時点で検体(血液, 便, 尿, 鼻咽頭スワブ)を収集し、RT-PCRSARS-CoV-2を検査した。そして"RT-PCR cycle threshold value"を収集した。

"RT-PCR cycle threshold value":  サンプルのウイルスコピー数と逆比例かつ指数関数的に相関する。

③ Clinical management

 各患者の血算, 肝機能, 腎機能, CRP, LDHを測定。また呼吸器サンプルはmultiplex PCR assayでインフルエンザウイルス等の呼吸器系ウイルスの有無を精査した。

 全ての患者について、SpO2 92%以下の患者に酸素療法を行う等の支持的療法を行った。また市中肺炎を疑った患者には広域抗菌薬とオセルタミビルを投与。医師が必要と判断し、尚且つ共有された意思決定と患者の口頭の同意を得られた場合、lopinavir-ritonavir合剤(200mg/100mg 1日2回, 14日間)内服を処方した。なおコルチコステロイドは重度インフルエンザで死亡率を上昇させたので投与しなかった。

 臨床的改善があった時、呼吸器検体をSARS-CoV-2 PCRに毎日送った(Resipiratory samples were sent daily for SARS-CoV-2 PCR on cilinical recovery)。隔離解除は、24時間以上間隔を開けて採取した少なくとも2連続の検体のPCR assayが陰性であるかどうかに左右された。

 

(3) Results

① 疫学的特徴

 2020年の1月23日から2月3日の間に、シンガポールでは18名がCOVID-19と診断された。発症は同年1月14日から同30日までであり、全患者に発症前14日以内の武漢への渡航歴があった。2020年の2月25日の時点で、COVID-19患者の治療に関与した医療スタッフの感染は確認されていない。

② 臨床的特徴

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 臨床的特徴はTableにまとめられている。発熱(13名; 72 %]), 咳嗽(15; 83 %), 咽頭痛(11名; 61 %)はよく見られる症候であった。鼻汁は稀(1名; 6 %)であったが、6名(33 %)は胸部画像で異常, もしくは 肺の捻髪音を認めた。受診時にARDSだった患者はおらず、直ちに酸素療法を行ったのは1名だけであった。リンパ球減少(<1.1x10^9 /L)は16名中7名で見られた。CRP高値(>20 mg/L)は16名中6名(38 %)である一方、腎機能は正常であった。

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 12名(67 %)の患者の経過は安定(uncomplicated)であったが、6名(33 %)は酸素療法が必要であった(Figure 1)。受診時に胸部画像で透過性低下がなかったのは12名(67 %)で、うち9名(50 %)では急性期の間に透過性低下なく経過した。当初胸部画像が正常だったものの、両側性の拡散性透過性低下(bilatetal diffuse airspace opacities)となった患者は3名おり、うち2名は1週間以上発熱しなかった。2名(11 %)は酸素補充が必要で, 1名(6 %)は機械的換気が必要でICUへ入室した。付随する細菌感染, ないしウイルス感染は確認されず、2020年2月25日の時点で死者はいない。

③ 臨床的転機

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 酸素療法が必要だった6名のうち、5名がlopinavir-ritonavirを投与された(Figure 2)。5名中3名(60 %)は投与開始後の3日以内に酸素投与量を減らすことができ、5名中2名(40 %)は治療2日目でウイルス放散(viral shedding)が消失した。

 しかしながら、2名は悪化して呼吸不全が進行、1名が機械的換気を要した。ICU入床中、この2名で鼻咽頭スワブ, もしくは気管チューブ吸引液でウイルスが検出されていた。

 5名中4名は吐き気, 嘔吐, 下痢を発症し、3名は肝機能異常を呈した。こうした副作用のため、14日間の治療期間を終えたのは1名だけだった。

④ ウイルス学的特徴

 咽頭スワブが最初に陽性になってから最後に陽性になるまでのウイルス放散期間の中央値は12日(range 1~24日)だった。また15名(83 %)は7日以上、鼻咽頭からウイルス放散が検出された。酸素療法を受けていない12名と酸素療法を受けた6名の間で、病日ごとの連続したcycle threshold valueの時間経過は類似していた。

 便(8名中4名; 50 %), 血液(1名中12名; 8 %)からPCRでウイルスが検出されたが、尿では検出されなかった

 

(4) Disucussion

 武漢での研究で発熱がなかった患者は1.4~17 %であったのに対し、本研究では28 %で発熱がなかった。おそらく接触歴を追跡することに努力を傾注したことを反映したものであろう。

 8名の患者中4名では、下痢がないにも関わらず、1~7日の間にウイルスが便から検出された。中国の研究では6名の患者, 及び5名中1名の患者でウイルス血症が検知されたが、本研究では12名中1名だった。Shenzhenの家族集団では、便や尿からウイルスは検出されなかった。SARSの場合、1週目にウイルス血症, 2週目に呼吸器系によるウイルス拡散が見られ、2週目以降も便中へのウイルス排出が持続した。MERSの場合、ウイルス拡散は血液と便中よりも下気道サンプルで多かった。SARSでは、鼻咽頭サンプルでのウイルス量とウイルス血症が重症度と関連していた。

 本研究において、発症後COVID-19の患者の鼻咽頭サンプル内のウイルス量は最初のわずか数日中でピークに達し、その後減少した。発症後、鼻咽頭吸引液からのウイルス拡散期間は最短で発症後24日後まで延長された。この数値は、中国の類似研究より長い。この期間が終わるまで、ウイルスは断続的にしか検出されなかった。これがウイルス拡散の強さの生物学的差異によるものなのか, 或いは存在するウイルス量が少ない時のサンプル採取の変動(sampling variability when low amount of virus are present)によるものなのかは不明である。検出可能な期間中にウイルスが感染可能になるかどうか決定することは、感染制御に向けた努力においては不可欠である(Determining whether the virus remains transmissible throughout the period of detactability is critical to controll effort)。

 酸素化が悪化した1~3日目に5名がlopinavir-ritonavirで治療されたが、臨床的効果のほどは曖昧であった。投与開始後1~3日目に解熱したものの、2名では病勢進行を防げなかった。咽頭スワブからのcycle threshold valueで示されたウイルス量の減少は、lopinavir-ritonavirで治療された人とそうでない人の間で類似しているように見えた。この小規模なcase seriesでは明確な証拠がないため、Lopinavir-ritonavirのCOVID-19における治療効果は、アウトブレイクにおけるランダム化研究で検証される必要がある(The effectiveness of lopinavir-ritonavir treatment in COVID-19 needs to be examined in an outbreak randomized trial, given a lack of clear signal in this small case series)。

"Bellingcat"なるサイトを読んで、ガチなファクトチェックを知った件について。

 いつ頃からか、「ファクトチェック」というフレーズが流行るようになりました。これまで様々な『嘘』 ー 厳密には、裏付けのない憶測, 科学的検証の無い情報, 別メディアで発表された情報を改変し、意図的に別の文脈へ付け替えるetc.ー が、インターネットはまだしも、場合によりテレビといった公共放送に流れてしまった経緯があります。それは2011年の東日本大震災福島第一原発事故や2016年の熊本地震の際に問題となり、災害が無い時であっても、世間の注目を集めたニュース ー 例えば、沖縄の県知事選や、地球温暖化に対する若者の市民運動の端緒となったグレタ・トゥーンベリ氏に関する話題など ー にかこつけて、真っ赤な嘘や, 事実を歪曲した情報が出回ることが頻繁に起っています。そして今、COVID-19に関してもネット上で不正確な情報が流布され、特に民放のワイドショーでは「医師」, 「研究者」という肩書があるだけで実際は感染症診療・対策に従事した経験に乏しい者がコメンテーターとして登壇し、困惑を招いています。言うなれば、科学技術が発展した現代ですら、自分が目にした情報の正誤を判断する能力, もしくは情報を科学的に吟味し、誤ったものについてはしっかりと反証する媒体が必要なのです。

 そんな中、このいわゆる「ファクトチェック」という文脈で最近私の興味を引いたメディアがあります。"Bellingcat"という、研究者やジャーナリストらからなる集団です(下記リンク)。Open sourseやSNS上の情報を通して独自調査を行い、麻薬カルテルや人道に対する犯罪, 世界中の紛争に関する調査結果を発表しています。

bellingcat - the home of online investigations

 そういった彼ら・彼女らの業績の一例を今回、紹介してみます。2011年以来、内戦下のシリアでは複数回にわたって化学兵器による攻撃が行われ、一部はISILが行ったものの、大半はシリア政府軍による攻撃でした。2018年4月7日にもシリアのDoumaで化学兵器による攻撃があり、事後調査を化学兵器禁止機関(Organization for the Prohibition of Chemical Weapon: OPCW)が行いました。OPCWの実情調査派遣団(Fact Finding Mission; FFM)が2019年3月1日に最終報告書を公表し、その中で塩素ガスが使用されたことを明言しました。

 ところが、Wikileaksへ「FFMのメンバーだった」と名乗る2名(仮名"Alex"と, Ian Hendersonなる人物)がFFMの内部文書やメールをリークしてOPCWの出した結論へ疑問を呈し、「化学兵器攻撃は偽装であり、実際は行われていない」とする主張を展開してみせたのです。

 このファクトチェックのため、bellingcatはリークされた文書とOPCWの報告書双方の精査を行い、また現地から発信された情報(写真や証言など), 他のジャーナリストの取材内容や人権団体の報告も調査しました。その調査内容を一部抜粋し、以下に列挙してみます。

  • Alexは主にFFMの最終報告書(2019年3月公表)を批判しているが、彼がWikileaksに漏らしたメールは報告書の原稿2つ(2018年6月作成, 本来ならば公表されない内部文書)と中間報告書(2018年7月公表)に関するものであり、これらはFFMによる調査が全部終わっていない段階で作成されたものである。またWikileaksは2018年8月20日以降にやりとりされたFFM内部のメールを公開していない(持っていないか, 持っているのに敢えて公開しない, のいずれかの可能性がある)。
  • Alexは、「Doumaの現場からはごく少量の有機塩素誘導体しか見つかっていない」(これはFFMも認めている)と示した上で、「ほかの原因からも生じうる(例; 塩素系漂白剤)」と主張。但し、この証拠が採取されたのは同じ建物の違う階と, その建物が面する通りからである。そこの住人が、壁を含む屋内全体と通りまでの全部を塩素系漂白剤で掃除するというのは無理がある。またその建物の中では上空から投下されたシリンダー(塩素ガスの容器。多くの独自調査で、それは政府軍による塩素ガス攻撃でシリア政府軍が使用したという確証が得られている)が見つかっており、そのシリンダーの急速な腐蝕は塩素との反応があったことを示唆している。
  • AlexはWikileaksに、OPCWへ派遣されている政府関係の毒物学者との数分間の会話記録を漏洩している。その中で毒物学者は、「犠牲者に3~4時間で泡を吹く(肺水腫による)という症状が表れた」という目撃証言は「発症時間が早すぎて、塩素ガスとは矛盾している」と述べているが、第一次世界大戦時の証言や軍医の症例報告では、塩素ガスへの暴露後3~4時間よりも早く発症しているという報告がある。また2019年の医学的文献でも、「塩素ガス濃度が25~50 ppmの状態で肺水腫は2~4時間で発症するが、50 ppmを超える場合は30~60分で発症しうる」という記述がある。

  • 自分の報告書をリークしたIan Hendersonは、2019年3月14日付の文書で「Doumaを訪問し、その後5週間はシリア国内のOPCW contol postの責任者を務めた」, 「現場から見つかった2つのシリンダーの弾道の分析を行った」と述べた上で「その後仕事から外された」, 「だが視察団長から許可をもらった上で計算用ツールへアクセスし、分析は継続した」と主張。しかし、HendersonはFFMのメンバーでなかった上, FFMの業務は機密性が高かったので彼は除外された、というのが真相である(Hendersonは勝手に、機密性が高い情報にアクセスしていた)。
  • Hendersonは自分の報告書をFFMのメンバー宛に「2019年2月25日に送った」と主張したが、実際は2月27日でありFFMが最終報告書を出す2日前であった。そしてHendersonは2019年2月28日にFFM担当者へ「文書アーカイブスに報告書を入れておいた」と報告したが、これは最終報告書が公表される前日であり、最終報告書発表までの間にこれを検証する時間はなかった(Hendersonは勝手に書いた報告書を突然提出し、FFMを混乱させた)。
  • Hendersonが書いた報告書自体も様々な欠陥が指摘されている。例えば、塩素ガスが入っていたシリンダーについてHendersonは「500mより高いところから落とされていない」という憶測を示していた。しかし実際のところ、シリア政府軍のヘリコプターが小火器に狙われにくい夜間などに500m以下の高度を飛ぶことは十分ありうる。またHendersonは報告書の仮説の項目で「シリンダーは未知の高度から落ちたと考えるべきだ」と述べているが、シミュレーションでは恣意的に高度を最低500mと設定しており、シミュレーションでこの仮説を検証できていない。更に、Doumaに近い空軍基地から軍用ヘリが4機、化学兵器による攻撃があった時間帯に離陸しているところが目撃されている。

  • シリア政府とロシアは「化学兵器攻撃自体がなかった」, 「でっち上げだ」と主張している。しかし化学兵器攻撃があった時期に、Doumaは政府軍による間断なき砲爆撃に曝されており、化学兵器攻撃から24時間以内に街は政府軍に包囲されて多くの避難民も生じていた。その混乱の中で、ロシアやシリアの政権側が主張するような「他の場所からシリンダーを運び込んで現場に配置する」, 「他の場所から老若男女の遺体を運び込んで塩素ガスの犠牲者と見せかける」、「遺族に『遺体は化学兵器攻撃を偽装するため運び込まれた』ということを口止めした」といった類の工作をしている余裕などない。ましてやそのロシア・シリア側の主張を裏付ける証拠(証言, 映像, 写真)はない。

 Bellingcat全ての記事が4篇に分けてまで記述されるほど冗長な訳ではないのですが、単に「ファクトチェック」と言ってもここまで長く、やや難しい内容になるなんて私は度肝を抜かれました。インパクトの強い嘘を覆すためには、かなりの量の証拠を集めた上で科学的に分析し、論理的に反証を組み立てねばならないのでしょう。願わくば日本でも、このようなメディアが登場することを望みます。