Voice of ER ー若輩救急医の呟きー

日本のどっかに勤務する救急医。医療を始め、国内外の問題につきぼちぼち呟く予定です。

チェルノブイリのロシア兵は本当に『被曝』だったのか

 こんばんは。現役救急医です。ロシアのウクライナ侵攻は、ロシアが首都キーウ攻略から手を引き, 2014年以降占領を続けているクリミア・東部(ルガンスク, ドネツク)からの攻撃に重点を置き始めているようです。そんな中、4月1日ごろから気になる情報が出回っています。曰く、ロシア軍は今年2月下旬にチェルノブイリ原発とその周辺地域を占領していましたが、3月31日、同原発から撤退して, ウクライナ側に管理を委ねることにしたそうです。

www.cnn.co.jp

また、ロシア軍のチェルノブイリからの撤退に関して、「ロシア軍が原発周辺の最も汚染された地域『赤い森』で塹壕等を掘っていた」, 「そのせいでロシア軍兵士が大量被曝した」という情報や、「兵士らに急性放射線症の症状が出た」という情報も出回っています。

 率直に言うと、私はこうした情報に関して懐疑的です。ですがその前に、放射線が人体に与える影響などについてざっとまとめてみてから, 「何故私が懐疑的なのか」を述べようと思います。

 

 

(1) 放射線が人体に与える影響

 放射線が人体に与える影響についてまとめる前に、放射線の定義や, その単位についてまとめておく必要があります。放射線医学総合研究所(注:今は別名称の組織へ改編されています)が作成した『医学教育における被ばく医療関係の教育・学習のための参考資料』によると、放射線とは、

物質(分子・原子)を電離(+電荷のイオンと−電荷の粒子に分離)する能力を持つ粒子線, あるいは 電磁波

のことを指します。放射線にはα線β線中性子など様々なものが含まれますが、以下の2群(?)に分類されます。

実はα・β・γ・X線中性子の性質もそれぞれ異なるのですが、話が長くなるので今回は割愛します。

 原子炉では、ウラン235(U-235)・プルトニウム239(Pu-239)といった放射性元素中性子を吸収することで2個の原子核に分裂する核分裂が起きています。この核分裂によって中性子が放出され、それが周囲のU-235・Pu-239に当たって更に核分裂を起こすことで連鎖反応を起こします。核分裂の際にできた『2個の原子核』には、ストロンチウム90(Sr-90), セシウム137(Cs-137), ヨウ素131(I-131)といったものが含まれますが、いずれも不安定な放射性元素であり, β線γ線を放出します。

 放射線の単位にはベクレル(Bq), シーベルト(Sv), グレイ(Gy)と様々なものがありますが、それぞれ定義が異なりますので注意が必要です。

  • 放射性物質放射能の単位がBqで、放射線発生装置(CTやレントゲンなど)の出力の単位がkV, mAであり、これら装置の性能試験等に用いられ, 放射線と空気の相互作用(で生じる電荷)に注目した『照射線量』の単位がC/kg, Rである。
  • 放射性物質放射線発生装置が放射線を出している環境に人が居る(または空気などがある)場合、人体と放射線のエネルギーのやりとりを表す量を『放射線定量と呼ぶ。
  • 放射線定量のうち、人体・空気といった物質が吸収した単位質量当たりのエネルギー『吸収線量』と呼び、単位はJ/kg, Gyであ。これは全ての放射線量に適用でき, 放射線防護量を導く重要な量である。
  • 等価線量』・・・単位はSv放射線(e.g. α線, β線など)による吸収線量放射線加重係数』(放射線の種類等を加味したもの)を掛けて, 次に各放射線の数値を足し合わせたもの。単独の臓器・組織に関する数値である。

 例) γ線放射線加重係数=1)が10 mGy, 中性子(ここでは放射線加重係数=21とする)が5 mGyなら、10[mGy]x1 + 5[mGy]x21 = 115[mSv]

  • 実効線量』・・・単位はSv組織加重係数』(組織ごとの影響を加味したもの)各臓器の等価線量に掛けて, 次に各臓器の数値を足し合わせたもの。全身への影響を表す数値である。

 例) 肝臓(組織加重係数=0.04)が100 mSv, 胃(組織加重係数=0.12)が50 mSvの等価線量を受けたとすると、100[mSv]x0.04 + 50[mSv]x0.12 = 10[mSv]

 なお実際の現場(e.g. 医療機関など)では各臓器・組織ごとの等価線量を測定することは困難(よって、実効線量測定も困難)なので、サーベイメーター・個人被ばく線量計等で測定した『線量当量』(単位はSv)が使用されます。また、1時間当たりの線量当量を『線量当量率』と呼びます。測定装置には、次のようなものがあります。

  • 電離箱検出器, 電離箱式サーベイメーター:  照射線量(単位: C/kg, R)から吸収線量(Gy), 次に空間線量率(単位: μSv/h)を求める。特に後者はγ線による空間線量率を測定するものである。
  • ヨウ化ナトリウムシンチレーション式サーベイメーター:  γ線による空間線量率を求める。
  • 個人式被ばく線量計:  個人の被ばく線量(Sv)を求める。なおガラスバッジは、1ヶ月の積算線量を求めるものである。
  • ガイガーミュラー管式サーベイメーター, プラスチックシンチレーション式サーベイメーター:  表面汚染検知に使用し、β線を測定。単位はcmp(1分間あたりの放射線をカウントしたもの)。
  • 硫化亜鉛シンチレーション式サーベイメーター:  表面汚染検知に使用し、α線を検知。単位はcpm。

 

 では、本題である(?)人体への放射線への影響についてのまとめに移ります。まず、放射線の人体への影響は、以下の2つに大別されます。

  • 『確定的影響』 放射線によって、多くの細胞が細胞死を来すことが原因。不妊急性放射線等を来す。一定の線量(閾値)を超えることで発生率が急増する。
  • 『確率的影響』放射線によって、単一の細胞にて突然変異が惹起されることが原因。一定期間の潜伏期間をおいて癌を来す。閾値なく、線量増加と発生率が比例する。

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確定的影響と確率的影響の違い(旧『放射線医学総合研究所』の資料より転載)

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組織・症候別の急性吸収線量の閾値など(旧『放射線医学総合研究所』の資料より)

また放射線の人体への影響は、「急性か晩発か」によっても分類されます。

  • 急性:  一般的に細胞分裂の頻度が多い組織ほど, 形態や機能が未分化な組織ほど放射線の影響を受けやすい。特に、1 Gy以上の急性外部被ばくを全身に受けた後に数週間以内に発症する病態を『急性放射線症(ARS; acute radiation syndrome)』と呼ぶ。
  • 晩発:  被ばく後数週間以降に現れる影響のこと。線量や臓器により、現れる症状は様々である。特に重要なのが発癌性であり、癌の発生頻度は確率的影響と考えられている。低線量被ばくの場合、およそ100 mSv当たり生涯癌死亡確率は約0.5%上昇するとされている。

 ARSの臨床経過・症状には以下のような特徴があります。

  • 線量増加とともに、細胞分裂が盛んな組織・臓器から症状が発現する。すなわち、造血器→消化管→神経・血管系の順に障害が現れる
  • 時間経過上、前駆期, 潜伏期, 発症期に分けられ、その後回復ないし死亡する。
  • 吐き気・嘔吐・下痢・発熱・意識障害『前駆症状』と呼ばれる。被ばく〜前駆症状発症までの時間と被ばく線量は関連性があり、特に被曝後3時間以内に前駆症状が認められた場合は、1 Gy≦の高線量被ばくが疑われる
  • 具体的には、数日で急激なリンパ球減少が起こり, その後汎血球減少が出現する。4~6 Gy≦では腸管上皮が再生不能となって下痢・吸収障害・下血等が起こり, 8 Gy≦になると中枢神経症状によって意識障害などが出現する。

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線量と症状の関連

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ARSの病期

 

(2) で、実際チェルノブイリ周辺の線量はどうなの?

 ネット上で検索していたら、チェルノブイリ周辺の放射線量をマップ上に示しているウェブサイトを発見しました。今回の戦争の影響で、今年の2月末を最後に数値の更新が停止しています。

chernobyl.satoru.net

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チェルノブイリ原発近隣『赤い森』周辺の線量

マップ上に表示された単位(nSv/h)から察するに、当該時刻における空間線量率を示しているのでしょう。冒頭で言及した『赤い森』の空間線量率は示されていませんが、周辺のものが閲覧可能でした。以下に具体的数値を列挙します。

  • プリピャチ(2022/2/25の現地時間0:10):  10,200 nSv/h(=10.2 μSv/h
  • Yanov(2022/2/25の15:00):  612 nSv/h(=0.612 μSv/h
  • Christogalivka(2022/2/25の9:00):  11,100 nSv/h(=11.1 μSv/h
  • 原発敷地内:  場所により3,150 nSv/h(2022/2/25の9:20)〜93,000 nSv/h(2022/2/25の10:40)と開きがある。(=3.15〜93.0 μSv/h

 ※1: "n"とはナノのことで、ナノの1,000倍が"μ"(マイクロ)です。マイクロの1,000倍が"m"(ミリ)であり、みなさんご存知のように、ミリは1の千分の一です。

 ※2:  ちなみに、自然の空間線量率は海面レベルにて0.03 μSv/h, 高度1万メートルにて5 μSv/hであり、自然放射線による被ばくは、世界平均で年間2.4 mSv(=2,400 μSv)だそうです。

 「吸収線量=1 Gy(ARSを来しうる線量)と仮定した場合、線種別の等価線量はそれぞれ

  1. γ・X・β線(放射線加重係数=1):  1[Gy] x 1 = 1[Sv]
  2. α線(放射線加重係数=20):  1[Gy] x 20 = 20[Sv]
  3. 中性子(放射線加重係数=2.5~20):  1[Gy] x 20 = 20[Sv]

となります。こうしてみると、上記のチェルノブイリ原発周囲の空間線量率がγ線を計測したものだと仮定した場合、この外部被ばくのみにより, 短時間で1 Svという高線量に達するのは無理があるかと思われます。

 今回の『急性放射線症疑惑』に『赤い森』が関係しているとする言説は冒頭で紹介した通りですが、ネットで検索していたところ、環境省の資料が見つかり、

ロシアの一部の地域では、汚染が1,480 kBq/m2を超える森林へは、森林の保護消火活動及び疾病や災害対策を除いて立ち入り禁止とされ、森林内での活動や一般人の進入(植物の採取を含む)は禁止された

http://josen.env.go.jp/material/session/pdf/001/mat01-5.pdf

という記述を認めました。同じ資料内では、「チェルノブイリ原発事故による長期的な土壌汚染に関与しているのは半減期が30年であるCs-137」という趣旨の記述もありました。これらを踏まえると、「『赤い森』は主にCs-137によって、土壌汚染が1,480 kBq/m2を超えているのでは?」という推測も可能です。これまた環境省の資料によると、Cs-137の『実効線量係数』(BqをSvへ換算する際に用いる)は1.3x10-5[mSv/Bq]だそうです。

https://www.env.go.jp/chemi/rhm/kisoshiryo/attach/201510mat3-01-06.pdf

そうなると、1平方メートル当たり1,480 kBqの汚染がある土壌(或いは、同じくらい汚染された動植物)を経口摂取してしまった」と仮定すると、実効線量は

 1,480,000[Bq] x 1.3x10-5[mSv/Bq] = 19.24[mSv]

を超える推測されます。「場所や深さ, ないし 経口摂取したモノによっては、100~1,000 mSvくらい被ばくしてもおかしくないのでは…」とも思いたくなります(セシウムは雲母鉱石に固着してしまうので、森の生態系内を循環してしまい, 水により森から出ていくことも少ないのだそうです)。

 

 

(3) でもちょっと待って

 ただ、「下痢・吐き気・嘔吐・発熱・意識障害」を起こす疾患は、ARS以外にも沢山あります。依然SARS-CoV-2が世界中で流行している現状を鑑みると、多人数が集団で行動する軍隊内でCOVID-19が蔓延してしまっても不思議ではありません。また、飲料水や食料が汚染されていたり, 手洗い等の基本的な衛生管理が出来ていなかった場合、ノロウイルスサルモネラ菌等による胃腸炎が部隊内で流行してしまってもおかしくないとは思います。というか、「胃腸炎・COVID-19以外でも発熱・嘔吐・下痢等を来しうる疾患(というか、感染症)の鑑別診断を示してみろ」と言われたら、色々な疾患(というか感染症)が候補に挙がります言い換えると、「チェルノブイリから撤収したロシア兵の中にARSを疑う症状を呈する者が複数いた」という『噂』は、「部隊内で感染症アウトブレイクしてしまった」という事象を誤解した結果である可能性も十分あるのです。

 

 

(4) 参考資料

 最後に、上記リンク以外に今回参照したものを紹介して今日の記事を締めます。