Voice of ER ー若輩救急医の呟きー

日本のどっかに勤務する救急医。医療を始め、国内外の問題につきぼちぼち呟く予定です。

本の紹介(17); 『「BC級裁判」を読む』

 今日は8/15, 日本がポツダム宣言受諾を表明し、第二次世界大戦にて連合国へ降伏して75年経過した日です。そんな日ですが、今回は第二次世界大戦 ー 特にアジア太平洋戦争 ー における、日本が関与した非人道的行為に関連する著書を紹介します。

『「BC級裁判」を読む』著者; 半藤一利, 秦郁彦ほか, 日経ビジネス人文庫

 

(1) そもそもBC級裁判とは何?

 まず、この本の記述を参考に、BC級裁判の定義から述べます。ニュルンベルグ裁判や東京裁判では、戦争犯罪を1. 「平和に対する罪」(侵略戦争を開始した罪), 2. 「通例の戦争犯罪」(従来の国際法に明記されている罪), 3. 「人道に対する罪」(戦争行為以外の大量虐殺, 虐待など)の3つに分類していましたが、日本においては1.をA級, 2., 3.をそれぞれB級, C級と呼んだのです。

 単に「戦争犯罪」, 「国際法」と言われてもパッとこない方も居ると思うのでついでにここで説明します。まず1907年に調印された陸戦の法規慣例に関する規則『ハーグ陸戦法規』で宣戦布告, 戦闘員と非戦闘員の定義, 捕虜の取り扱い等が規定されました。その中で、「規定に違反した者を交戦国が捕らえた場合は戦闘終了時までに処罰することができる」とも定められています。

 そして第一次世界大戦終結後の1919年、パリ平和予備会議で戦争に関する責任を調査する『十五人委員会』が作られ、その委員会が『戦争の法規及び慣例の違反』の事例32項を挙げています(その後、1944年にもう1項目が追加され合計33項目に)。また同年のヴェルサイユ講和条約の際には『国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪』が明記され、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が訴追されたことで侵略戦争=違法」という認識が国際社会に共有されることになりました(なおヴィルヘルム2世はオランダに亡命, オランダが身柄引き渡しを拒否)。

 加えて1929年には『捕虜の待遇に関する条約』(『ジュネーブ条約』)が締結され、「捕虜はその人格及び名誉を尊重される権利を有する」, 「捕虜捕獲国は捕虜を給養する義務を負う」等の規定が設けられています。

 要は、上記のような国際的なコンセンサスに反する行為を裁いたのが東京裁判A級戦犯の裁判)やBC級裁判だったのです。ちなみに、東京裁判は条例に基づいて裁判所を設置し, 各国より選出された文民(一部は軍人)を裁判官とした一方、BC級裁判は軍の行政機関である軍事委員会(判事も全員軍人)という違いがあります。

 

(2) BC級裁判で裁かれた事例とは

 実は私、まだこの本を読み始めたばかりで、まだ半分にも届いていません。なのでここで紹介するのは本の前半に登場する事例2つだけにしようと思います。申し訳ありません。

① 泰緬鉄道建設に伴う捕虜虐待

 1942年6月、大本営ビルマ駐留軍の陸路での補給を確立する為に、南方軍泰緬鉄道建設を指示。同年11月から始まったタイのノンプラドック(地図1)〜ミャンマーのタンビュザヤ(地図2)間の4,115 kmを結ぶ路線の建設作業を担ったのは英軍・豪軍等連合国捕虜約65,000人, アジア人労働者約20~30万人でした。なおこの区間はジャングルもある山岳地帯であり、マラリア等の疫病も多発していました。同路線が完成する1943年10月までに、栄養失調やコレラ赤痢マラリアといった感染症により捕虜約12,000人, アジア人労働者約42,000〜74,000人が死亡したと言われています。 

 地図1:  ノンプラドック(Nong Pla Duk)のGoogle Map検索結果

  地図2:  タンビュザヤのGoogle Map検索結果

 この本では約7,000人のうち約3,000人が死亡した捕虜部隊『Fフォース』の事例が紹介されています。同部隊は元々シンガポールの捕虜収容所に収容されていましたが、1943年4月に行き先も告げられないまま移動命令が下り、トイレ・洗面所すらない有蓋貨車に詰め込まれてタイのノンプラドック駅まで輸送されました。同駅で降りた後、さらに捕虜らは作業予定地のソンクライまでの約300 kmを徒歩で移動させられました(下にGoogle Mapの画面キャプチャーの写真あり)が、その行程でアジア人労働者の間でコレラが流行、あっという間に捕虜にも感染が拡大してしまいました。また移動は猛暑の昼を避けて夜に行われたそうですが、昼間は熟睡できない・食事もロクに与えられない(1日2回で1杯の米と水っぽい玉ねぎのシチュー程度のもの)為、捕虜らはソンクライに着く頃には疲労し切っており、4割程度が病気だったそうです。

 建設現場到着後の環境も過酷で、捕虜の宿舎は当初水漏れするテント, その後改められたものの、雨漏りがしてシラミ・南京虫が湧く小屋でした。作業時間は当初朝8時〜夜8時まで(途中、1時間の休憩を挟む)の11時間でした。しかし大本営が工事開始の3ヶ月後(1943年2月)に、工期をもとの1943年末から1943年5月末(後に8月末に延期)へ繰り上げるよう要求したことから、1943年6月の捕虜らの平均労働時間は13時間半, 7月は14時間半, 8月には最長で約19時間と延長していきました。更に、収容所内でコレラマラリア等の感染症アウトブレイクし、「隣の小屋で150人中49人がコレラで死亡した」という捕虜の日記の記載や、「1943年5月中旬に、現地の労働者から感染したことでコレラ流行の第一波が発生し, 同月下旬からは収容所の上の階からの雨漏り(上の階にトイレがあった)で第二波が発生した」等の捕虜軍医の報告も紹介されています。

f:id:VoiceofER:20200815164614p:plain

ノンプラドックからソンクライまでの移動経路(Google Mapより画面キャプチャー)

シンガポール華僑粛清事件

 太平洋戦争開戦後の南方作戦でマレー半島を制圧した日本軍は、1942年2/15にシンガポールも占領。その後、同年2/18〜3/3の間にシンガポール在住の華僑を殺害しました。その死者数は未だに議論が分かれ、2,000人とする説, 5,000人とする説の他、シンガポールでは40,000〜50,000人と信じられています。なお、マレー半島シンガポール制圧を担当した第25軍司令官 山下奉文は「中国民は隔離分類せらるべき集中地区へ集合せしむべし」「反日感情を有する者、前政府官庁官吏等々は拉致し殺戮すべし」と師団長へ命令。しかし憲兵少佐は粛清命令に対し「意見具申の機会は何もなかった」, 「半日分子の選別もデタラメであった」と証言しています。事実、選別方法もインド人巡査や親日的とみられる華僑に選ばせた為、殺害された人には前科者や『与太者』が多かったそうです。

 更に、憲兵中尉の手記によると、彼の担当する検問所を参謀 辻政信が視察し「容疑者は何名選別したか」と訪ねてきたそうです。70名と返答したところ、辻は大声で「何をグズグズしているのか。俺はシンガポールの人口を半分にしようと思っているのだ」と言ったそうです。また、憲兵隊本部に乗り込んできた朝枝繁春 参謀は軍刀を引き抜き「起きろ!起きろ!憲兵は居ないか?軍の方針に従わぬ奴は憲兵といえどもぶった切ってやる」と騒ぎ立てたとのこと。粛清計画を立案したのはこうした参謀らで、彼らが前線部隊へ粛清の拡大を強要した経緯もあったそうです。

 なお日本軍が華僑『粛清』に踏み切った背景には、中国戦線における経験(少ない兵力で広大な地域を占領している為、反撃を受けた際に大損害を被った事例が多かった)や, 東南アジア在住華僑が抱く反日感情への不安, 一部のシンガポール在住華僑が、シンガポール攻略戦の際に無線で英軍へ日本軍の位置を報告していたこと, そして 少ない兵力でシンガポールの治安を維持(シンガポール制圧後、スマトラ島ビルマ攻略の為に兵力が転出する予定だった)することに対する不安, があったと考えられます。

 

 あまりのえげつなさに途中から読むのが憂鬱になりましたが、史実は変えられません(変えるべきではありません)。確かに戦時中、日本国民も米軍によるB-29の大空襲や2度の原爆投下・沖縄戦における無差別攻撃, 日本政府/軍当局による言論や経済活動等への弾圧・沖縄戦における住民への暴力といった被害を被っていますし、前線の兵士らも陸海軍首脳部の無茶な作戦・兵站の途絶等によりかなりの犠牲を強いられています。しかし、同じ頃に同じ日本人が、諸外国の軍人・市民に対する残虐行為の加害者となった事も記憶に留めておく事こそ必要だと私は思います。