Voice of ER ー若輩救急医の呟きー

日本のどっかに勤務する救急医。医療を始め、国内外の問題につきぼちぼち呟く予定です。

東日本大震災から8年。

 今日で東日本大震災から8年。私は既に大学生でしたが、忘れもしません。激しい揺れと、TVで見たおぞましい津波の映像, 爆発する原発建屋。こんなことを言ってはなんですが、「この世の終わり」をこれほど強く意識したことはありませんでした。

 8年経過し、津波で破壊された街並みに建物が戻った光景や、福島第一原発の避難区域に戻りだした住民の映像を見る機会も増えてきました。しかし、心に傷を負った人や、未だ行方不明の方々が居るのも事実です。

 

 話は変わり過日、日本DMATの研修を東京都内某所で受講し、無事合格しました。「日本DMATとは何ぞや?」と言う方のため、大雑把に説明しますが「災害時に大量の傷病者が発生し、地元の医療機関だけでは手に負えないので応援に向かう専門チーム」ということです。仕事内容は多岐に渡り、被災地域の災害拠点病院での傷病者診療のみならず、被災した病院からの患者の転院の支援, 避難所での診療など色々あります。詳細な定義云々は、下のWikipedia厚労省のリンクを参照して下さい。

https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001tefj-att/2r9852000001tev6.pdf

 この研修の中で、阪神淡路大震災以来、被災地での急性期の医療活動を経験されてきた先生が以下のような話をしていました。1995年の阪神淡路大震災の時、皆災害時の医療について右も左も分からないため、救えるはずの多くの命が失われたそうです。例えば、現地の医療スタッフは被災した病院で必死に入院患者と、次々と来院する傷病者の診療をこなしていました。しかし、物資輸送が寸断され、電気やガス, 水道が止まった状況で出来ることは限られています。被災していない病院や地域に転院搬送すれば助かっていた患者が多数亡くなったことが後になって判明したのです。

 DMATといった仕組みは、この教訓を生かし創設されました。その後、DMATは大規模自然災害が発生する度に現地で活動し、その度に新たな教訓を得ます。2004年の新潟県中越地震のとき、避難所に行かず車内で過ごしていた被災者の間で所謂「エコノミークラス症候群(下肢静脈血栓症と、それに続発した肺塞栓症)」が多発し、これらの予防・啓発が新たな課題として浮上しました。

 また2011年の東日本大震災の時は、東北地方の太平洋沿岸部の広範囲で多くの病院が被災しましたが、福島県では第一原発の避難区域内の医療機関の避難が滞り、移動の過程で複数の入院患者が亡くなりました。未曽有の原子力災害, そして「被災した病院の避難をどう進めるのか」が、また新たに課題として浮上したのです。そして2016年の熊本地震の際、行政が把握していない場所に避難している住民が見つかるなど、「避難所への救援をいかに進めるか」が新たなる課題となりました。

 災害が起きるたびに、新たなる課題が浮かび上がる。これは医療に限った話ではないと思います。毎年、3/11を迎える度に私たち日本人は、亡くなられた方々を追悼しつつも、「この国は常に、いつ起こるかわからない自然災害という爆弾を抱えている」という事を思い出し、それに対していかなる対策を練るか・どのような社会/インフラを構築すべきか考えていく必要があると強く感じました。