Voice of ER ー若輩救急医の呟きー

東日本の某県に勤務する救急医。医療を始め、国内外の問題につきぼちぼち呟く予定です。

本の紹介(8); 『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』

 今日もまた、最近読んだ本を紹介します。前回同様、アジア太平洋戦争に関連した本です。

『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』 著者; 井上寿一, 講談社現代新書

終戦直後の1945年、首相に就任した幣原喜重郎は、「敗戦の原因を調査し、今後の新日本の建設の際参考にする」ことも志向しました。そして、政治・軍事・経済・思想文化・科学技術等各分野の識者を集めて『戦争調査会』を発足させます。当事者への聞き取りや資料の収集, 40回以上の会議などの精力的な活動を行っていましたが、1946年9月末に、GHQからの横槍もあり廃止されました。この本は、その『戦争調査会』の設立経緯や活動の実態, そして彼らの導き出した結論をまとめたものです。

 この本で扱われている分析を大きく分けると、①なぜ軍部は暴走するようになったのか, ②満州事変と日中戦争の発生・拡大はなぜ防げなかったのか, ③日米開戦はなぜ回避できなかったのか, の3つに大別できます。ここでは、②について取り上げてみたいと思います。

 1931年9月に満州事変が勃発します。当時の若槻礼次郎内閣(民政党)はこれを「外からのクーデター」と捉え、危機に対処する為に野党(政友会や国民党)との大連立内閣を結成して軍部に対抗しようと考えます。しかし、身内からの抵抗などもあって実現せず、若槻内閣は総辞職してしまいました。その後に総理大臣になった犬養毅(政友会)は、当時の大恐慌に対して積極的な政策を行う一方で、満州で好き勝手にする関東軍に対しては無策でした。

 その後の1932年、リットン調査団が現地調査に来ます。実はこの時、日本側は調査団側に好印象を与えおり、報告書も「満州は中国の主権が認められる自治政府に改めるべきである」, 「それは過激な変更でなく、現行の制度を進展させることで可能だ」と慎重な文面でした。しかし日本政府は「満州国の存在が否認された」と解釈し、国際連盟から脱退した上に、中国との関係修復の機会も逃してしまいました。なお満州事変は1932年5月の停戦協定で一旦収束していました。関東軍は当初、満州国の建国だけが目標だったのです。

 その後、意外にも日中関係は徐々に修復に向かっていきます。国際連盟による対日経済制裁が実行されず、欧米が事態の傍観を決め込んだ為、中国が現状への妥協を余儀なくされたからです。しかしながら、日本国内では国家主義を信奉する軍人らによるテロ(5・15事件や2・26事件), 軍部や政界の派閥争いで混乱が持続。その間に、軍部が華北自治体を中国から離反させる工作を勝手にやり、日中関係は再度悪化。遂に1937年7月には盧溝橋事件が発生し、日中戦争が始まります。

 日中戦争の初期、日中双方は和平の機会を伺っていました。日本側にとって北にソ連という敵国が居る中で中国と事を構えるのは得策でなく、中国側(当時は国民党政府)も共産党との内戦を抱えていたからです。同年12月に南京が陥落, 翌1938年1月に当時の首相近衛文麿が「国民政府を相手にせず」と表明しましたが、この間・これ以降も和平工作の努力は続けられていました。しかしながら、同年7月に近衛が「国民政府を相手にしない方針を変えない」・「あくまで蒋介石政権を打倒する」と表明した事で和平の機運は消退。軍の内部でも、戦線拡大に異を唱える上層部が、現地軍の司令官らの反抗(戦線拡大を希望)を抑えられなくなっていました。

 最近、日本の歴史、特にアジア・太平洋戦争の経緯について「自虐史観」というイデオロギーが浸透し、様々なメディアを通して独自の解釈を目にする機会が増えています。しかし、そこには「なぜこんな事態(敗戦や、数百万人単位の犠牲者など)になったのか」を冷静に分析する思考は存在しません。こんな状況で、『素晴らしい日本』や『美しい日本』を後世に残せるのか甚だ疑問が残ります。