以前から、私も他の医療関係者同様、とある医療関連の刑事訴訟の行方が気になっていました。2016年5月、東京都内の病院で右胸腫瘍の摘出術を受けた女性(30歳代)が、『術後に男性主治医からわいせつ行為を受けた』と主張。警察が介入し男性医師は立件されました。
事件は刑事裁判へ至り、男性医師側(弁護側)は「手術で使用した麻酔薬の影響で、せん妄が生じた。それで性的な幻覚が見えた」と主張しました。検察側も各種の証拠・証言を提示して対抗し懲役3年を求刑。最終的に裁判官は、検察側の示した証拠と、証人による証言に矛盾点があるとして無罪の判決を下しました。
詳細な経緯は以下の記事に記載があるので是非ご一読を。
1. m3.comの記事
https://www.m3.com/news/iryoishin/660332
2. 江川紹子氏による記事
この裁判で争点となったのは事件性の有無でした。その判定の為、主に次の2点が問題となったのです: ①被害を主張する女性の発言の信用性と、術後せん妄の有無・程度, ②DNA型鑑定・アミラーゼ鑑定の信用性。
はじめに、①について裁判所はどのように判断したのでしょうか。まず、「女性患者本人が頻繁にナースコールを押したり、看護師へ『ぶっ殺す』と言った(女性本人に記憶はない。つまりせん妄の症状である)」とする医療スタッフ(他の医師や看護師)の証言を証拠として採用。また同じく弁護側の証人となった精神腫瘍科医師・麻酔科医・乳腺外科医の証言は専門性と説得力があると評価しました。
一方で、検察側の証人となった麻酔科医の証言に関しては「乳房手術とせん妄リスクについての証言が、過去の自身の共著論文と矛盾している」と指摘しました。更に、同じく検察側の証人である元科捜研の精神科医の「DNAが検出されており、せん妄で説明する必要がない」という証言は「結論を先取りしている」為証拠能力が乏しいと判断したのです。
②に関しては、科捜研のずさんな証拠・データ管理が問題なりました。1.試料やDNAの鑑定の為の検量線が破棄されており, 2.鑑定途中のワークシートを鉛筆で記入し、消しゴムで消して修正した跡が沢山ある ことが判明。裁判所は「検査者としての誠実さに疑念がある」・「基礎資料の作成方法としてふさわしくなく、職業意識が低い」と指摘した上で、科捜研の鑑定結果の信用性についての判断を保留する結果となりました。
また、検察側の証人(元科捜研で米国の大学の研究員)は1.付着物のアミラーゼ活性が高いこと, 2.1人分のDNAが検出されたこと, 3.DNAの量が多いこと, から「男性外科医が女性患者の乳首を舐めた」と主張していました。これに対して弁護側も法医学の専門家の立会いで検証実験を行い、会話の時に飛んだ唾液の飛沫や、触診の際に付着した手の汗である可能性を主張。最終的に裁判所は弁護側検証実験の結果を採用しました。
今回の問題点をまとめると、次の通りでしょう。
①一般市民(患者側)及び警察・検察が、せん妄という状態を知らなかった(理解していなかった)。
②警察の証拠管理がずさんだった(むしろ、立件・有罪判決に対して不利に働く要素を隠滅したのではないか?)。
①については、医療側から情報発信に努めるのはもちろんのこと、マスメディアにもっとこの事件に関し報道してもらい、周知を徹底させる事が肝要だと思います。他方、②に関しては、警察や検察の組織内の改革を進めてもらうしかないと思います。その為にはやはり、この事件の事実関係を報道を通して有権者に知ってもらい、警察・検察へ監視の目を向けさせる事が必要でしょう。
また、福島県の大野病院事件(産科医が周産期合併症による医療事故で逮捕されたが、最終的に無罪となった)や今回の事例のように、医療事故へ警察をいちいち介入させるのはいかがなものでしょうか。そもそも、警察官は人体、ましてや医学・医療に関する知識を十分に持ち合わせているとは思えません。鑑識課の警官が死因不詳の死体や事件・事故現場で死体を調べることはあっても、最終的な診断を下すのは医師。また、このような死体の解剖を行うのは監察医や, 各大学医学部法医学講座の医師であって、警察官ではありません。ほぼド素人の警察官に任せるよりは、医療事故調査委員会のような、医学・医療の専門家で構成された第三者集団の方がよっぽど良いと考えているのは、私だけでしょうか。