Voice of ER ー若輩救急医の呟きー

日本のどっかに勤務する救急医。医療を始め、国内外の問題につきぼちぼち呟く予定です。

鳥羽伏見の戦い

  昨晩、NHK総合で『歴史秘話ヒストリア』という興味深い番組をやっていました。今からおよそ150年前にあった鳥羽伏見の戦いの真相を紹介する内容でした。

  これで新政府軍が勝利したのは皆様もご存知でしょう。しかし実際は、勝機は幕府軍にこそあったのです。幕府軍は1万5千の大軍に加え、フランスから導入した兵器・戦術、更には当時の日本国内で最大規模の海軍を持っていました。他方の薩長中心の新政府軍も西洋式の兵器は持っていましたが性能は幕府に劣っており、兵力に至っては4千と明らかに劣勢でした。

  では何故、幕府軍は鳥羽伏見で敗れたのでしょうか?要因は次の3つでしょう。①根拠無き希望的観測, ②組織内での意思疎通・連携の不備, ③リーダーの不在。この3つを、順を追って説明してみます。

 

① 根拠無き希望的観測

  鳥羽伏見の戦いの際、幕府軍は1. 鳥羽街道を進軍する軍団 と 2. 伏見を通過する軍団 の二手に分かれて新政府の拠点である京都を目指しました。『歴史秘話ヒストリア』ではまず、1の鳥羽街道を進軍する幕府軍(以下、鳥羽街道軍団)に着目しています。

  鳥羽街道軍団は、街道の守備についていた薩摩軍の一部と対峙しました。鳥羽街道軍団の司令官 滝川具挙は、薩摩軍の指揮官へ「我々は上様(将軍)の上洛を先導する者であるから、道を開けろ」という旨の要求を突き付けます。薩摩軍の指揮官は、「天皇の許可が無いと道は開けられない」と滝川の要求を突っぱね、最終的に「御所に確認を取るから、そちらの兵を引いて待っていろ」という返答を寄越します。

  問題はここからでした。滝川は薩摩軍指揮官の返答を真に受け、兵を引いてしまったのです。薩摩軍は幕府軍を待たせている間に、敵への待ち伏せ/奇襲攻撃を企図し自軍の配備を変更しました。他方、鳥羽街道軍団は「敵は幕府軍銃口を向ける気すらない(臆病者だ)」と高を括っていました。なので、行軍中に一度敵軍に遭遇したにも関わらず、兵士らに銃への弾の装填をさせていなかったのです。結局、薩摩軍からの遅い回答に苛立った滝川は勝手に行軍を再開。これを見た薩摩軍は待っていましたとばかりに、攻撃を開始。不意を突かれた鳥羽街道軍団は潰走してしまいました。

 

② 組織内の意思疎通・連携の不足

  鳥羽伏見の戦いの開始3日目、敗走した幕府軍はすぐ近くの淀藩(藩主が幕府の要職を担う譜代大名)の居城 淀城に籠城し新政府軍へ対抗する手筈でした。しかし淀藩は幕府軍の入城を拒否し、幕府軍大阪城まで総退却しました。

  原因は、淀藩と幕府の意思疎通にありました。開戦の1ヶ月に、幕府は淀藩と連絡を取り、非常時には淀城を使わせてもらう言質を取っていました。しかしながら、いざ鳥羽伏見の戦いが始まってみると幕府軍から淀藩への連絡は途絶えます。明らかに戦火は淀城に迫っているのに、幕府軍は一向に戦況等につき連絡を寄越さない。しかも新政府は、淀藩へ「幕府に味方するな」と圧力をかけてきています。幕府軍への不安・不信感と、新政府軍の脅威の板挟みに苛まれた淀藩は、戦火に巻き込まれぬ為に幕府軍の入城を拒否したのです。

 

③ リーダーの不在

  幕府軍の総司令官は言うまでもなく、徳川慶喜でした。鳥羽伏見開戦前、自軍の優勢を知っていた慶喜は、戦わずとも新政府軍を屈服できると踏んでいました。しかしながら、幕府内の主戦派の勢いが予想外に強かったため、やむなく開戦を許可します。

  ここまでは仕方ないと思うのですが、問題は鳥羽伏見敗戦後の対応です。敗戦を知った慶喜は「大阪城が焼けても徹底抗戦するぞ」といった趣旨を述べて自軍の戦意を鼓舞します。しかしそのすぐ後に、闇夜に紛れて大阪城を抜け出し、海路で江戸へ帰ってしまったのです。このようなザマでは新政府軍への組織的抵抗は極めて困難です。幕府軍大阪城に火を点けて撤退してしまいました。

 

  上記3つのうち、特に2つは後世の日本軍にも似ていると感じました。以下で詳しく説明します。

  まず、①の「根拠無き希望的観測」について説明します。太平洋戦争のミッドウェー海戦の際、連合艦隊司令長官山本五十六はミッドウェー島の米海軍基地を攻撃することで真珠湾攻撃から逃れた米艦隊を誘い出し、叩き潰す計画を立てていました。しかし、作戦に参加した第一機動部隊の司令官は、「米海軍が出現するのはミッドウェー島攻略後だ」と思い込み、ミッドウェー攻撃前ないし最中に米艦隊がやって来て攻撃されると想定していませんでした(従って、索敵も不十分だった)。緒戦の勝利で慢心していたのです。その結果、第一機動部隊は参加した空母4隻全てを予期せぬ米海軍の攻撃で喪失し、米艦隊を叩くという当初の目的も果たせませんでした。

  次に、②の「組織内の意思疎通・連携の不備」ですが、以前も本ブログで述べたように、関東軍は本土の参謀本部に確認を取ることなく、満州国ソ連・モンゴルの国境紛争への対応策を決定していき、戦線をますます拡大させました(ノモンハン事件)。そして、量も質も勝っているソ連軍を前に関東軍は甚大な損耗を重ねていきました。また、沖縄戦の際には、米軍侵攻を航空決戦で食い止める計画を立てていた大本営と、沖縄での持久戦を志向した現地の第32軍の齟齬が埋まらぬまま米軍侵攻を迎えました。沖縄の飛行場をむざむざ米軍に引き渡してしまった第32軍に驚いた大本営は、持久戦の準備に入っていた第32軍に基地奪回を要求。迷った末攻撃に出た32軍は大損害を喰らって、持久戦にも支障を来してしまいました。 

  最後に、③の「リーダーの不在」ですが、日本軍も適正なリーダーシップを発揮できませんでした。日本軍は組織内部の感情的融和を優先するあまり、問題のある指揮官がメチャクチャな意思決定を下しても、部下らはその指揮官の気迫に押され助言を諦めてしまいました。他方の上層部の将校も、その指揮官をたしなめたり更迭するどころか、意向を汲んで計画を承認してしまったのです(その代表例がインパール作戦)。加えて、戦時中の大本営昭和天皇は、それぞれ志向を異にする海軍と陸軍を統合し運営する事に失敗。作戦等の計画を立てるにしても陸軍・海軍の主張を折衷させた曖昧なものを作った結果、大統領の強力なリーダーシップの元、陸海空の戦力がスムーズに連携している米軍の前に敗退を重ねたのです。

 

  このように、歴史は私達に様々な教訓を与えてくれます。学ぶ事を怠れば、早晩同じ過ちを繰り返すことでしょう。