Voice of ER ー若輩救急医の呟きー

日本のどっかに勤務する救急医。医療を始め、国内外の問題につきぼちぼち呟く予定です。

明治維新考ー 中立的観点から見直してみた ー

 今年は「明治維新150年」というフレーズがよく聞かれ、明治維新の主役となった薩摩と長州ー 鹿児島や山口 ーでは記念行事も予定されているようです。そして何よりも、今年の大河ドラマ明治維新に貢献した英雄の一人、西郷隆盛大河ドラマの主人公です(『西郷どん』)。

 しかし、東日本, 特に東北では雰囲気が違うようです。新政府側に対し恭順を示したにも関わらず侵攻された奥羽列藩同盟(会津, 仙台, 越後など)にしてみれば「戊辰戦争150年」で、「屈辱的な侵略と降伏を強いられた悲劇のイベント」なのです。数年前に同じく大河ドラマになっていた『八重の桜』を見たことがある方ならお分かりになるのではないでしょうか。地域によって「明治維新」に対する考え方は180 °ではないにせよ違います。

 そこで私は、この記事で極力中立的に「明治維新」・「戊辰戦争」に至る経緯を考察してみたいと思います。

 まず、長州藩の立場ですが、薩摩藩と違い過激な尊王攘夷派への抑えが効かず、彼らに京都で狼藉の限りを尽くす機会(『尊王攘夷』の大義の元、暗殺や恐喝を繰り返したので、肝心の天皇から嫌われてしまったのです!)を与えてしまいました。そして藩の中枢まで過激思想に乗っ取られてしまった結果、長州藩兵が京都に攻め込み御所に砲火を向け(1864年7月の禁門の変)、『朝敵』になるという大失態を犯してしまいます。しかも1863年5月に関門海峡を通過する外国商船を砲撃した(Wikipediaの記載によるとこれは当時の国際法に違反しているそうです)結果、禁門の変の約1ヶ月後に米英仏蘭の4カ国艦隊の攻撃を受け大敗しています。後述するように薩摩が味方についてくれていなければ、長州藩は同年の長州征伐で滅亡し、明治維新が起きていなかったかも知れません。

 他方薩摩藩は、長州藩よりは賢く振舞っていたと思います。薩摩藩はペリー来航以前から、琉球王国や南西諸島に外国船が来航するというインシデント(もちろん、北海道や長崎, 東京湾でも同じインシデントは起きていました)を何度か経験してたので、西洋列強の脅威を深刻に捉えていました(幕府内部にも同じ危機感を持った人間が居たのも事実です)。そのため、島津斉彬は集成館事業で藩の軍事と産業の西洋化を推し進めました。加えて、『西郷どん』でも描かれたように篤姫を第13代将軍徳川家定に輿入れさせたり、家定の継嗣に一橋(徳川)慶喜を推すなど幕政に介入する事で、幕府(と老中等要職を占める譜代大名)だけでなく雄藩も加えた新しい政治体制で欧米列強という脅威に対抗しようと画策します。

 ただ、慶喜の実父、徳川斉昭はバリバリの尊王攘夷派で、言うなれば長州藩の過激な連中と思想的に共通する人物であった事, 後述するように慶喜公武合体工作の結果できた参預会議を破綻に追い込でしまった事から、斉彬は応援する(つく)側を間違えていたのかもしれません。

 斉彬は志半ばで病に倒れ、その遺志を次代藩主島津直義の父、島津久光が継ぎます。彼は上京した過激な薩摩藩士を説得しようとしたり(1862年4月に起きた寺田屋事件。結局斬り合いに発展してしまいますが)、幕政改革を企図して1862年3月に兵を率いて上京したりと尽力します。その過程で、久光は朝廷から「京に蔓延る過激浪士をどうにかしてくれ」という命令を受けているのです。会津藩松平容保も同年8月に京都守護職に就任しています。つまり、後に敵対する薩摩と会津は当初は同じ側にいたのです!

 しかも、西洋列強の艦隊に一方的にボコボコにされた長州藩と違って、薩摩藩1863年8月の薩英戦争で英国艦隊に一定のダメージを与えているし、相手側の兵力の上陸を許していません(そもそもこのきっかけになった生麦事件も、日本のしきたりをよく知らぬまま入国した英国人が、久光の大名行列へ馬に乗ったまま突っ込むという「無礼」を犯した結果、切り捨てられた事が原因です)。

 久光が進めていた改革がいわゆる『公武合体』という運動で、斉彬の案を踏襲して幕府/譜代+親藩・外様の雄藩+朝廷という新しい政治体制をによって、欧米列強の脅威に対抗しようという考えだったのです。この運動を進める過程で、幕府+薩摩側と長州側が激しく対立し、禁門の変に発展してしまうのです。久光の努力は実ったかのように見えました。1863年年末には雄藩+幕府の集合体である参預会議の結成・開催が決まったのです。しかし、孝明天皇から海外貿易を認めた港の閉鎖を約束させられていた事が事態を複雑にします。会議で横浜港を閉鎖すべきか議題に上った時、全員が「各国と通商条約を締結してしまったので、今更攘夷は非現実的だ」と分かっていたにも関わらず、徳川慶喜が心変わりして横浜港閉鎖を主張して久光と対立。会議は1864年3月には崩壊してしまいます。

 さて、「日本の政治体制を変えて、欧米列強の脅威に備える」という目標が、幕府側ー というより慶喜 ーの一方的な態度により潰えた薩摩藩はどうなったでしょうか?『倒幕』という過激な主張を掲げていた長州藩の味方になるのです。後は皆さんのご存知の通り、両者が結託して幕府に宣戦布告し、うまく朝廷の同意を取り付けて幕府方に『朝敵』のレッテルを貼ることに成功します。そして冒頭で述べた戊辰戦争・明治政府樹立に突き進んで行くのです。

  ここで流れをもう一回整理してみましょう。最初薩摩は幕府と同じ側におり、朝廷と幕府のパイプ役を買って出ました。他方、長州藩は過激さだけが取り柄のISIL(イスラム国)みたいな集団で、”Public Enemy No.1”でした。しかし、幕府のトップに近い人間が非建設的な言動に及んだ結果、薩摩が目指した新しい政治体制は瞬く間に崩壊します。そして取りつく島の無くなった薩摩は、『倒幕』という過激な目標に目覚め、同じ目標を以前から掲げていた長州と『連合国軍』を結成してしまったのです。 ISILも、米軍侵攻後のイラクで軍や官職から追放されて路頭に迷った旧フセイン政権(今の北朝鮮みたいなもので、宗教色は薄く、個人崇拝と恐怖政治が中心の独裁体制だった)の軍人・役人たちが参加しブレーンとなったお陰で一時期その版図を拡大した経緯があります。日本の幕末の場合、その”ISIL”たる長州藩薩摩藩という助っ人を得た為に、幕府を転覆し政権獲得に成功したと言えるでしょう。